当メディアでブログを200記事書いたら少しパートナーである妻のことを書いてみようと思ってました
おそらく本人にも言ったことがない内容だとは思います
つまらないと思うのでスルーでもいいですよ
ボクの幼少期『もし・・・』のある生活
プロフィールでも書いてるが
ボクは3歳ぐらいの時に両親が離婚して『父』と暮らしていた
そこに違和感はなかった、訳が無い。
みんなはお母さんがいるのにボクにはいない
みんなは帰ったら兄弟や家族いるのにボクは誰もいないし家の電気をつけるところから始めなければいけない
もうその頃から【覚悟】と【受け入れる】という2つの感情は強かった
どんな状況でも受けいるれるし覚悟を決めて取り組む
そうじゃないとまともに自分が食べたいモノすら食べれなかった
『もし、お母さんがいたらなんでも言えるんだろうか?』
『もし、兄弟がいたら家で一緒に遊べていたんだろうか?』
『もし、帰った時に誰かいたらご飯のリクエストとかできていたんだろうか?』
そのうち家じゃ喋る相手もいないのでボクは無口になっていきました
その代わり頭の中で会話するようになりました
シュミレーションというか想像ばかりするように
以前【ホンマでっか!?TV】という番組で『頭の中で会話している人間がごく少数存在する!?』
みたいなテーマで専門家の先生が話していましたが
ボクは幼少期からずっと頭の中で会話する人間だったので、この状態は『普通』だと思っていた
それが普通じゃないと分かった時は衝撃でしたね。
言葉で表すのは難しいんですが今やってる事を考えてる領域と頭の中で会話してる領域があって
たとえ接客中でもブログの内容だったりを頭の中で会話しながら構成考えながら、カットしてる。みたいな。
そんな感じで日々頭の中で会話しているので口喧嘩では負けたことがありませんw
ただ思うことは常に会話してるし色々とイメージもしているので
たとえば思い描いていた夢というか目標などはほとんど実現してきています
常にそのことで会話してますからね、チャンスにはすぐに飛びつける人間になっちゃてます
そして、父【稲津譲治】
ボクの幼少期の中心的な人物が父の譲治ですね
またこの人が変な人で
いわゆる【普通】を嫌う人だったんですよね
小学生時代は自分だけランドセルじゃなくイーストボーイのリュック
美容師になってからも
『流行(はやり)には乗るな!』
とか言われてましたもん。
学生時代も『勉強しろ!』と言われたことがなかったです
欲しいものは全部買ってもらえていました
ゲーム(プレステ)とか朝の4時ぐらいまでやって8時に起きて学校行って、学校で睡眠とって、また帰って朝方までゲームみたいな生活でした
それでも、『勉強せんや!』とか『ゲームばっかすんな!』は言われたことなかったです
ただ1つだけ呪文のように言われ続けた教えはあります
『1つでよかけん、誰にも負けんようなものを持っとけ!』
その言いつけだけは守って
勉強は全然してなかったですけど【社会】の教科だけ勉強してテストでは100点以外をとった記憶はないですね、他の教科はもちろんしてないのでカンニングしても赤点でした
部活でやってたサッカーも走るスピードとシュートの練習しかほぼやってなかったですね、まぁドリブルやパスはできなくてもスペースに走ってシュートを打つ。それだけの選手でしたが使い勝手はいい選手じゃなかったでしょうか?
その父の教えが今の経営にも少しは影響してるんですかね?
>>>【ランチェスター戦略】美容師としての武器を1つ持ち圧倒的ナンバーワンを獲得する方法
こういう戦略が大好きで徹底的に実践してついには熊本でナンバーワンになりました
>>>【顧客様へ現状報告】熊本ランキング1位には感謝しかない。
ゲームばっかやってたお陰で少しの時間(10分とか)でも集中できるようになり
それも今となってはブログ執筆に生かされてますね
まぁこの時点で結構おかしな青年ですよね
何か1つのことしか頑張らないわ、無口だわ、その代わり頭の中でずっと会話してるからある程度の事は予測してできるわ、変に覚悟があって何かあっても人生に受け入れる心を持っていたりだとか。
そして、苦楽を共にした親友の死
そんな人間でなんとか美容師として生活してました
まだまだアシスタントのペーペーだった頃の24歳ごろですかね
ずっと美容師として共に頑張って、少ない給料をもらいつつ毎晩夜中まで練習を頑張り、閉店間際まで2人でドトールでくっちゃべって若者らしい日常を送っていた親友が交通事故で亡くなったんです
その親友は妊娠して美容師を離れていて、無事出産
おそらく子供さんが1歳にも満たない時期に高速道路での交通事故で亡くなりました
ボクは何も知らずに、以前その親友に『アンタ引っ越すときは言いなさいよ!ウチが色々捨てるの手伝ってやるけんw』
という言葉を思い出し引越しする予定だったので偶然その親友に連絡したんですね
本当に何ヶ月ぶりとかですかね?
そしたら電話には宮崎にいるはずの弟さんが電話に出て
『あれ?ユメミ?あ、すいません間違えました!』
って電話切ろうとしたら
『ネェちゃんは交通事故で死にました』
って一言。
その時のボクは冗談かと思ったんですが
なんかずっと貫いてその言葉だけを言ってくるので
『マジかよ・・・。』
そっからは未だにどういう行動をとったのか覚えてないですね
その親友は宮崎の出身で熊本の知り合いではボクが一番に連絡をかけたとの事
それも事故の翌日でした
まぁかなりショックだったんですが
あることがきっかけでボクは少し人との距離を取りたくなるようないわゆるコミュ障になりました
それがネットでの無情なコメントでした
ネットニュースにもなりそのコメント欄にあまりにもキツイことが羅列してあって
『こんな想いになるなら人と深くもう関わりたくない』
そう思ってしまった
ここでコミュ障まで発動したすごく偏屈な人間の誕生ですね
ボクはその親友の分も美容師を頑張ろうと必死にやってきましたし今も継続してます
『もし、ユメミが生きてたら新築して建てた美容室を見てなんていうんだろう?』
『熊本で一番になったことに対してはやっぱ『まだまだ!』とか言ってくるのかな?』
その時に親身になって相談などに乗ってくれた2人の友人がいるのですが
その2人は今のボクのたった2人しかいない友人です。
でもその2人は一も二もなく無条件でボクの為に動いてくれる人間だと思いますし、ボクも2人の為なら全力で動けます
そして、指摘され自分を変える苦痛の日々
自由にやってきましたそれからは
男女ともに不特定多数の人と遊んで
あまり深くは関わらず
だけど自分の元ある変な性格ゆえに
【自分が正義】
みたいなものもありました
今考えるとどうにも手に負えないやつですね
そんで、そんな人間が今の妻とお付き合いすることになったんです
ボクがひねくれたカーブなら
妻はストレートです
何か物事をボクは斜め上から見ようとする癖があるのですが
妻はちゃんと真正面から見る人間です
本当に妻にはお母さんの役割もしてもらったぐらいに手を焼いてもらいました
特に幼少期に注意されることもなかったので
食事の時に膝を立てて食べる。クチャクチャと音を立てて食べる。テーブルに肘をついて食べる
それを何故ダメなのかもわからないぐらいのボクはアホでした
そんな基本的なテーブルマナーだったり人としての向き合い方付き合い方を一から教えてもらったと思います
今では感謝ですが
当時のボクは自分を中心に世界が回ってると思ってるほどに傲慢で妻のその指摘も
(ナンやコイツ?いちいちうるしゃーね!押し付けんなよ)
ぐらい思っていて、喧嘩なんかも1週間で10回ぐらい喧嘩してました
それでも曲がりに曲がってるボクをしっかり者の妻は真っ直ぐに伸ばそうとまるで母親のように親身になって指摘し続けてくれました
でも、その時2人で同棲していたんですが、元来1人でずっと生きてきたボクにとって誰かと暮らすというのは少し苦痛でした、それに加え妻の指摘。
そして、鬱になる
仕事のハードさ、プライベートでのトラブル、頭の中での常に続く会話、あと自分を変えていく辛さ・・・
なんか色々のしかかってきて【鬱】になりました
そのときは死にたいとかは思ってなかったんですが
『別に生きとらんでもええね。』
ぐらいの感じでした
そんな状況だったので仕事(美容師)もやめちゃいました
そしてダラダラと休養?というか遊んでたんですよね。
それでも妻は怒りもせずに一緒に隣にいて支えてくれていました
もちろんお金もなくなってきてそろそろ美容師再開して頑張ろうかな?という意識が芽生えたときに
就職してから言えばいいものを、お金もないし、無職だし、ちょい鬱だしまだまだ変わり者だしの底辺のボクは妻に糸島に行った時に何を思ったのかプロポーズしました
普通無理あるでしょ?こんな状況の男
何でしょうね。オッケーもらって籍入れたんですよ
(コイツはホンモノだ)って思いましたね
その後再就職したんですが、なんか周りの事情がかなり動いて3ヶ月ほどで独立出店することにまでなって
たった半年ほどで無職の輩が一経営者になるまでになっちゃったんですよね
運がいいとかじゃなく、妻のおかげだと思ってます。
呆れずにボクを一人前の人間に育ててくれて、その姿勢や生き方が周りを動かして半年という短い期間で独立出店という結果につながったと思います
もちろんボクは自他共に認める豪運を持ってるとも思いますがね。
そして、父の死
別に隠すことでもないのですが
独立してあーでもないこーでもないと頑張っていた時に
父が自殺したんですよね
平成29年の3月31日の18時ごろに最後の御客様をサロンで待っていたら
叔母から電話が来て
泣きながら『じょうさんが冷たくなってる。』と。
最初はそれだけだったので『何かの病気でも持ってたのか!?』と思いソッコーで実家に帰ったら
すでに警察の方とお医者さんの検死が始まっていて
親族が玄関に集まっていてボクに『譲治が自殺した』と。
父もメンタルは弱い方だったので少しだけそんな予感はしてました、が、今でも思い出せないぐらいにボクは怒ってましたね
その気持ちもわからんではないんですよ、ボクも鬱になって思ったことはあったので
一番ショックなのは
【親の死に目に会えなかった】
これは本当に悔やまれます
すぐにでも顔を見たいのに『警察とお医者さんの検死が済んでから・・・。』
もう訳わからんでしょ?
何でたった1人の家族の父に合わせてくれないんだ!と。
葬式では涙を見せないように気丈に振る舞いました
そして、その葬式がボクの親族(父)と妻の親族の初顔合わせのような感じになりました
本当にお義父さんお義母さんには今でもちゃんとできなかったことに申し訳ないです
全然記憶はなく
気づいたのは父の骨壷を抱えた時に
その骨壷は人の温もりがありました
父を抱いてるような感覚になりました
でもその温もりは違っていてずっと隣にいてくれた妻の温もりでもありました
その時に心に決めた事は
『妻とじいちゃんだけは1人で死なせたりしない!何があろうと今度こそはボクが側についてやる!』と。
今は隣の母屋にじいちゃんが1人で住んでるんですが、『何かあっても1人では死なせんけんね、俺が絶対に側についとくけん』と伝えてはいます
そして、2人の結婚式
父の死から1年後、長女凛が生まれました
生まれたのは3月10日だったのですが
出産予定日を2人で見たときは驚きましたね
3月31日
そう父が他界したちょうど一年後だっから。
そしてようやくボクの中で平穏な日々が続きました
地震など意に介さないほど平穏でした
だって子供の頃に思い描いていた
『もし・・・』のある生活ができているからです
帰ったら電気がついていて、玄関を開けたら娘がドタドタと走って迎えてくれる
そして、妻がボクの好きな料理を作ってくれている
これ以上の幸せは自分の人生ではなかったですね
全て妻に叶えてもらえました
そして、ボクの『もし・・・』と思う頭の中のイメージ・会話の中での空想を全て娘が超えるような幸せを運んできてくれました
娘が1歳と半年を過ぎた頃に
『そろそろ結婚式しよう!』
とボクが投げかけました
妻はあまり乗り気じゃなかったのですが
どうしても妻のお義父さんお義母さんに申し訳なくてやらせていただきました
この結婚式でボクの親族も(この子はいい子でホンモノだな)と思わせたと思います
それが最後の新婦の両親への手紙
まぁ大抵泣きますよね
妻も涙もろいので
(おそらく泣くな・・・。)
と思ってたのですが涙も見せずにスラスラと感謝の気持ちを両親に伝えて、
今度はこの結婚式の最中に多分みんな意図して口に出さなかった『父』に手紙を読み始めたんです!
妻は涙しながらボクの父に感謝を伝えていました
もちろんボクの親族もボロ泣き。
ボクももちろんボロ泣き
最後のボクの挨拶もゲロ吐くぐらい覚えてたんですが
全部飛んで、娘を抱きかかえながら皆様にお礼の挨拶をして最後に『稲津譲治の息子で良かったです!』と言ったのは覚えています
最後に父をボクらの結婚式に招き入れてくれて妻よ、ありがとう
そして、美容室の新築
無一文のちょい鬱の無職の底辺時代から
たった5年です
たった5年で個人の美容師が新築で土地を購入しサロンを建てるまでになりました
『絶対に自分の理想の美容室を建てる』
というのは妻にも言ってきたのですが
こんな無謀な夢にも一言も文句を言わずについてきてくれた事は感謝です
おそらく20代の頃の妻に出会ってなかった頃のボクでは到底無理でしたね
運がいい方だとは思っていましたが、妻に稲津佑哉をしっかりとした人間に変えてもらったので豪運を持てるようになったのだと思います
もとより妻と出会ったのが運が良かったのでしょう
宝物
普通の一般家庭の人にとっては多分アルバムの奥深くに眠っていると思いますが
僕たち家族の唯一の【家族写真】です
これも欲しかったんですよ
でもそんなタイミングなんて絶対なくて
それがたまたま母屋に母も来るという機会になってその時に妻は写真にハマっていて
わざわざ一眼レフカメラを持ってきていたのです
おそらくスマホぐらいじゃお互い恥ずかしがって撮らなかったと思いますが
一眼レフカメラとなると話は違いますよね?
当然家族写真を撮れました
なんか3人ともぎこちないですがね
これも妻のファインプレーでしたね!
まさか一眼レフを持ってきてるとは。
そしてボクの家族です
この『もし・・・』は叶う事はないのでしょうが、父に紹介したかったですね
『どうや?親父?これが俺の家族たい、妻の江美子は知っとるね。
おかっぱが娘の凛。これがおてんばで手のかかるつたい!
そんでちっこいのが息子の伊織。こっちはこっちで病気ばっかするけんね!納豆ばいっぱい食わせんといかん
どうね親父?最高だろ?俺の家族は?』
『あと、令和元年に土地買って美容室を新築で建てたとたい!
カッコええど?一切妥協しとらんけんね!』
人間としても美容師としても母としてもまっすぐで尊敬できる妻です
おしまい
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